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01-17

ひと月前、途中まで書きかけてやめた言葉たち。

自己満足でしかなかったかもしれない。

けれど、自分自身が忘れないために、

もう一度何かできないかと考え続けるために、

刻みたいと思います。

11年前の記憶を。

いつも、何かをやりかけてはするりと逃げてしまう自分を嘲いながら。

 


 

あの日、私は何もしなかった。

TVのない生活で、出勤するまでその大惨事があったことさえ知らなかった。
のんきに過ぎた11年前のあの日。

 

時間が経過し被害が明らかになればなるほど、その惨状に目を見張った。
予想をはるかに超えていて、これから町がどうなるのか想像すらつかなかった。
それでも、普通に仕事に行き、日々を終えた。
死者数は日を追うごとに増え、冥福を祈った。
それでも、毎日仕事にでかけ、日々が過ぎた。

 

 遠くのできごとで、他人事だったと思う。
今でも、その感覚が自分で恐ろしい。
想像力というものが、私には欠けているのかもしれない。

 

 


 

 前年の夏、私は仕事を辞めていた。
1年かけて集めた「PKO法案反対の署名」を国連に届けるために。
閉鎖的な市民運動に疲れ果て、関わりを絶とうとしていた。
反対していた法案も通ってしまった。
が、せっかく集めた11万余の署名を無駄にしないために、国会とNYの国連本部に届けることにしたのだ。
仲間5名と通訳を依頼したD氏とNYへ発った。

 

             ***

 

その年の夏秋は、短期アルバイトをして過ごした。
たっぷり時間があるから、と思い切った憬れの尾瀬ヶ原でのバイト。
山小屋に3ヶ月住み込んだ。
朝4時起きで、夜9時までの働きづめ。
晴れた日も、雨の日も、嵐の夜も、尾瀬の日々を満喫した。

 

             ***

 

 尾瀬から戻ってもすぐには仕事がなく、単発の仕事でしのいだ。
年が明けてやっと再び、短期アルバイトについた。
一ヶ月ほどの超短期の仕事。それでもありがたかった。
震災が起こったのはその矢先だったのだ。
私は黙々と、仕事をこなした。

  


 

2月。就職活動を進め、3月からの長期の仕事を手にした。
そして、職に就くまでの自由な10日間、神戸に行くことを決めた。

その頃にはもう、電車はある程度復旧していて、目的の兵庫駅まで行くことができた。ブルーシートで覆われた屋根。一瞬、あれっと思う。日常の何の変哲もない風景の中に、派手な“青色”で彩られた屋根。

ああ、これが爪あとなのだ。

 

ボランティアの受け入れをしている、とある団体を訪ねると、着いた最初に「焼け跡」に案内された。

そこは火の勢いが強く、一帯が丸焼けになった場所だった。

古くから続いた商店街。日々糊するために、地元の人が利用した「台所」。そこに暮らす人々にとって、とても大切な場所。

それがみんな燃えてしまった。

そのまま。ひと月半経っているというのに、何もないのだ。
ついさっき焼け落ちたような感じで、まだ大地がくすぶっているようだった。

 

その「焼け跡」に立った途端、方向感覚が狂ってしまった。
たちまち時間の感覚も失ってしまい、気がつくとウロウロと徘徊するように歩き回っていた。

建物の影もない広い焼け跡。なぐさめる花もない焼け跡。

慌てて探しに来たボランティア仲間の姿を認め、私はいちばんやってはいけないことをしてしまったと感じた。

これは、遊びではない。

ここでは、単独の意思で行動してはならない。

 


 

震災のあった翌日からボランティアとして留まっているCさんは、建物の下敷きとなって動けない人を、助けることができないまま、その場を離れたのだという。商店街は直後、火に包まれた。Cさんはその日から、家に帰ることができなくなった。

生きのびた彼は、その生を喜ぶべきはずが罪悪感を背負ってしまった。自分ばかりが生きのびたという罪の意識で苛まれ、人のために生きることで何とか踏ん張って立っていられるような、そんな状態だった。

 

受け入れ先のボランティア団体は大所帯で、震災直後から活動をしていた。水の配給、食糧の配給、情報の伝達、安否の確認・・・。そして、この頃になると水、食料はほぼ安定して行き渡るようになっていた。電気やガスのライフラインも復活していた。N区の私たちが滞在していた地域では、次の問題として安否の確認と健康状態の把握が急がれていた。

Cさんと一緒に、私たちはプロジェクトXというチームを立ち上げた。

それは、ある区画の一軒一軒を訪ねながら、世間話をする中でニーズを把握するというものだった。今、どんな生活をしているか。足りないものはないか。怪我はしていないか。子どもたちは夜怯えていないか。話し相手はいるか。情報は届いているか。お金はどうしているか・・・。

小道具はぜんざいと甘酒。大鍋で煮込んだぜんざいを配りながら、チャイムを押して一軒一軒まわる。

断られる日もあった。けれど、3日に一度はこうして安否確認をして、孤立しないように、つなごうとしていた。

話し相手がいないのか、30分も1時間も話をする人。からだの痛みを訴える人。義捐金のことをまるで知らなかった人もいた。そうした人と行政をつなぐのも、また大切なことだった。

 


 

たかが10日間。

何もできなかったと思う。神戸には5月に再度1週間滞在し、その後は、3年間滞在し活動を続けた友人に会いに2度訪ねただけだ。

結局、自己満足で終わっただけだ。それは確か。

一度かかわったのだから、もちっと何かやりようがあったのではないか、と思う。日々の生活の中にまぎれて「思い」が消えてしまう。私の場合、いつもそうだ。

でも、それでも、動きたい衝動にかられたときにその場に行けたのだから、11年前の私はまだまだ若かったなあ、と思うのだ。今、同じように動けるかどうか、自信がない。

年を重ねるだけ、束縛から自由になっていくものだと思っていた。

本当は、そうありたい。

からだがお終いになるその日まで、ちゃんと役に立つように。

誰かのために、自分のために、生きたいと思う。

 

 

             えっと、まとまらないけど、これでおしまいです~。

 

Cさんは、当時一緒に活動していた看護士さんと結婚され、幸せに暮らしています。


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Gotton Factory

こーさん、お久しぶりです。こーさん、震災後にこられてたんですね。
しかも被害がひどかった兵庫に。あのあたりは本当にひどくて長らく何にもなかったし、私がこんなことを書いていいかどうかわかりませんが、すべての人々が礼儀正しくボランティアを受け入れたかどうかとも思います。
ただ被害の当事者はもう無我夢中で自分のことで精一杯だったから、10日間
でも来て活動してもらったことは本当に助けになっていたと思います。
バケツリレーのようにそういう人たちが入れ替わり立ち代活動してくれたことが大きな力になって、長く被災者を支える力になっていたと思います。
復興は本当に長期戦だったから、ありがたいなあと思ったものです。
Cさんが幸せになられてよかったです。
by Gotton Factory (2006-02-18 09:23) 

toro

こーさん、自己満足とおっしゃっていますが、そんなことはないと思います。
行動に移すというだけで、頭が下がる。
私はといえば、年寄りを抱えていたので動くことができず、、、回りの人が被災してしまっていて、頭もパニック状態だったので…(私は京都に住んでいたから全く大丈夫だったくせに)。
地震のあったその日に、「そうだ、まずはお金…」と思って日本赤十字にお金を送りました。実際的にはそれしかできなかった。
抱えていたおばあさんの家に行く道すがら、真ん中がなくなってしまっているマンションを見た時は愕然としました。本当に…。そして三宮の惨状。。。
でもね、結局は「人」の力が大切なんだなと思います。私自身、被災してしまった人たちの中に頼りにしていた人もいたし、また一方で、そういう人を助けるのも人でなくてはできないし。
どんな形であれ、人として動くことができたこーさんは立派だと思います。
by toro (2006-02-18 09:30) 

ふきのとう

この震災が起きた時、登校しようとしていた子供と一緒に机の下に潜りました。子供が乗っていくはずだった電車は止まり、一日中テレビに釘付けになりました。その後の募金等はしましたが、私のしたことと言えばたったそれだけです。
その時、すぐに行動に移したこーさん、それだけで頭が下がりますし、自分にできないことをしてくださったこーさんに心から「ありがとう」と申します。
天災・人災にかかわりなく、世の中には不条理なことだらけ。平和や幸せの実感もなしに些細な権利ばかり主張する命がある一方で、一介の個人の良心や善意ではどんなことをしても救うことの出来ない命がゴロゴロしているのが現実です。ボランティアなんて実は無力感の連続です。重ければ重いほど「自己満足」と嘲笑に晒されるようなことしかできません。
そんな中で、敢えて現場に赴くことで一緒に痛みを共有し涙を流すことが出来た、その事実が、今のこーさんを支えているような気がします。その思いをいとおしんでいいのではないでしょうか。
その「自己満足」が誰の何に役に立ったか、それは誰にもわかりません。評価は神に任せましょうよ。
老化するのは肉体だけです。記憶だの思考だの、脳の老化と関わる精神活動もある程度老化しますが、「こころ」には疲弊はあっても老化は無いと私は思っています。そのこーさんの人としての心は時々休ませながら大事に労わり、そして常に貴女の原点として決して忘れず、次に老化していくこの体でも出来ることへと促すエネルギーにしてください。「できるだけのことをした」そのことが貴女のこれからを支えてくれるでしょう。
by ふきのとう (2006-02-18 13:02) 

タックン

昨年、尾瀬に一泊したときに、そこで働く若い方たちに会いました。
何かを求めて・・・こーさんの真摯な生き方、この記事を読ませてもらって
とてもステキだなと思いました。
そのときそのときの自分の気持ちに、真っ直ぐに立ち向かっていく。
どうしても傍観者になってしまう私には、まぶしいほどです。
by タックン (2006-02-18 20:28) 

kaz-i

こーさんへ

今日仕事が終わっての帰り道、この曲を聴いていたら、
この文章を思い出しましたよ!

ファイト!

作詞・作曲 中島みゆき  (NAKAJIMA Miyuki : 1983)

(前略)

私 本当は目撃したんです 昨日 電車の駅 階段で
ころがり落ちた子供と つきとばした女の うす笑い
私 驚いてしまって 助けもせず 叫びもしなかった
ただ恐くて逃げました 私の敵は 私です

ファイト! 闘う君の唄を
闘わない奴等が 笑うだろう
ファイト! 冷たい水の中を
ふるえながら のぼってゆけ

暗い水の流れに 打たれながら 魚たち のぼってゆく
光ってるのは 傷ついて はがれかけた鱗が 揺れるから
いっそ 水の流れに身を任せ 流れ落ちてしまえば 楽なのにね
やせこけて そんなにやせこけて 魚たち のぼってゆく
勝つか負けるか それはわからない それでもとにかく闘いの
出場通知を抱きしめて あいつは海になりました

ファイト! 闘う君の唄を
闘わない奴等が 笑うだろう
ファイト! 冷たい水の中を
ふるえながら のぼってゆけ

(後略)
by kaz-i (2006-02-18 22:51) 

こーさん

自己満足を垂れ流したような記事に、みなさんのあたたかいコメント、涙が出るほどうれしかったです。本当にありがとうございました。
Gottonさん、 toroさん、ふきのとうさん、タックンさん、 kaz-iさん、toyoichiさん、本来ならお一人お一人に返事を書くべきなのですが、お許しください。

いみじくもふきのとうさんがおっしゃった、「救うことのできない命がゴロゴロしている現実」に胸の中の砂粒のような塊が、其のたびジャリッと嫌な音をたてます。噛んでも噛んでも飲み込めない。むりやり噛み砕いて飲み込んでも消化できないものが、いつまでも胃の腑に残っているようです。
どうしたらよいのだろう、といつも落ち込んでしまいます。
だけど、希望も持っているのです。
生きることはすばらしいです。
生かされていること、それはもうすばらしいです。
だから、無力感に苛まれながらも、こうしてときどきグダグダ言いながらも、
一瞬一瞬を大切にして、私の心とからだにつながるたくさんの命を見つめていきたいと思います。日々の中に満ちている光を感じて、この世は決して闇ではないのだと伝えたいです。

みなさんには本当に大きな力をいただきました。ありがとうございます。
私も、そんな存在になりたいです。
by こーさん (2006-02-20 03:00) 

あの震災の前の晩、何か虫が知らせたのか私はなぜか一睡もできなかったんです。そして明け方、きついな~眠れなかったな~と思いながらベッドに横になったままテレビをつけたら・・・神戸の町の惨状が写っていました。一瞬目を疑いながらも、神戸に奈良に大阪に住んでいる親戚のことが脳裏に浮かび、
あの日は一日、暗い雲が頭上にあるかのような気分で過ごしたのを覚えています。
私は、こーさんさんと違って何もできませんでした。神戸の企業が主催する基金のようなものにしばらくの間募金をしていただけ。体は動かさなかった。
実際に行動することでしか感じられないことがあると思います。
私にはできなかった貴重な体験。
自己満足なんかじゃないんじゃないかな。
何ごとも、一方通行というのはないと思うのです。
それに、終わったわけじゃないもの。これからでも、神戸の町と関わっていくことは可能だと思う。何らかの形で、以前とは別の形で。
 日々の生活にまぎれて思いが消えてしまう・・・私もよく自分でそう思います。
消えてしまわないような「強い気持ち」を保てるように、
自分が死ぬときに、大げさなことではなくても、一つ、貫けたものがあればいいなと思う今日この頃です。
by (2006-02-20 03:15) 

あの時に自発的にあの場に行こう!そう思って行動しただけ凄いですよ。
見て、体験したことは報道で見ただけの世界とは全然違うはず。10日だけというけれど、立派じゃないですか? 
あの時、飛んで行ける環境にある人達が少し羨ましかったけれど・・・もし、私が行っても、何にもできなかったと思うな。11年経ってもこーさんの中にある熱い思い・・・大事にして下さい。それは行った者しか分からない思いでもあるのです。
by (2006-02-20 22:52) 

mamire

たとえ10日間でも、行こうと思って行く勇気のあったこーさんはすごい。
友達が神戸で被災にあいました。
後になって、少しずつそのときのことを話してくれました。
今でも心の中に深い傷となって残っているようです。
当事者でなければ分からないことはいっぱいあるけど、こーさんの行動力は決して自己満足だけでなんかないです。
by mamire (2006-02-22 21:21) 

こーさん

nadiさん、
あの日はほんとうに長い一日でしたね。
神戸在住の友人たちにすぐ連絡を入れ、電話が不通になる前に無事を確認できたのですが、それでホッとしてしまった自分に後々罪悪感を感じてしまうほど、本当にひどい地震でした。
映像であの光景を見ていることがつらくて、家にTVがなくてよかった、などと思ってしまいました。

>何ごとも、一方通行というのはない
そうですね・・・そうでした。ありがとう。nadiさんは大切なことをいつも気づかせてくれます。少なくともあのときは、「通い合った」ような気がしています。
これから、何ができるか。何度も何度も、自分の思いを掘り起こして、忘れないように見つめ続けたいです。
>死ぬときに、一つ、貫けたものがあれば・・・
これまた、惚れちまいそうな台詞ですね。
by こーさん (2006-02-28 01:20) 

こーさん

こぎんさん、
>あの時、飛んで行ける環境にある人達が少し羨ましかったけれど・・・
私の場合、まさにそうだったんです。自発的に、なんてどえらい話ではありません。
やりたい仕事が不採用で、「じゃあ、時間が空いたから行こうか」。そう思ってボランティア登録したところに、「やっぱり採用」の電話が来たのです。すぐに働いてくれ、とのことでしたが、一度決めたことをそう簡単に自己都合で止めるわけにはいかないので、職場に説明して行かせてもらいました。利益だけにしがみつかない、いい会社でした。
あのまま不採用だったら・・・友人同様、長期の滞在になっていたかもしれません。一本の電話で・・・、人生の妙ですね。
by こーさん (2006-02-28 01:45) 

こーさん

mamire さん、
心の傷は簡単には消えませんね。
ぜんざいを持って各家を訪問しているときも、歓迎していろんな話をしてくださる方、私たちの訪問を喜ばれない方、いろいろでしたが、「話さない」方のことがとても心配でした。
余所から来て、ちょっとだけ滞在して去っていく私たちのような者に、話したってわかるか、と思われた方もあったでしょう。ほかに、心の内を打ち明ける相手がおられればそれでよいのですが、実際ふだんから周囲と関わりを絶っている方も多い地域でした。長い間、ひとりで心の闇を抱えているのは、本当につらいことだと思います。
mamire さんのお友だちは、話せる相手がいてずいぶん救われたことでしょう。それでも、長い時間がこれからも必要なのでしょうね。
by こーさん (2006-02-28 02:07) 

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